猪熊弦一郎氏らがつくった香川県展の過去、現在とこれから
学芸課のロッカーで資料を探しているときに偶然、新聞記事のコピーを見つけました。「香川新報」、現在の四国新聞です。日付は昭和9年(1934)5月1日。昭和60年(1985)に発行された香川県美術展覧会(以下、県展)の歴史を綴った『県展史』の編集作業に際し、広く県民から資料提供を呼びかけ、入手したものということでした。それにしてもコピーとはいえ、よく残っていたものです。紙面には「初夏に咲き誇る讃岐美術の花園」「明一日(原文ママ)から十日迄、三越六階楼上で本縣美術そう合展」とありました。つまり、今年で83回になる県展のスタート、第1回県展創設の記念すべき日です。
戦前から始まった県展は、県主催としては全国で最も長い歴史を持つ公募展です。太平洋戦争の開戦年の昭和16年(1941)と、終戦年の昭和20年(1945)という厳しい時期を除き、県展は続いてきました。文化芸術への県民の意欲は脈々と受け継がれていきます。県展の他にも戦後の高度経済成長期、香川県は県外から流政之をはじめ、丹下健三、イサム・ノグチ、ジョージ・ナカシマを迎え、数々の名作を生みました。その後、現代アートの聖地・直島の誕生、今日の瀬戸内国際芸術祭と香川の芸術は時代の先端を歩んできました。県展はそうした動きのきっかけとして始まったのです。「アート県」香川は昭和初期から始まっていたと言っても過言ではないでしょう。
先に述べた『県展史』中の県展創設時の記述があります。昭和8年(1933)、県知事(当時)の木下義介が上京し、中央で活躍する香川県出身の作家を集めて食事会を開きました。集まったのは、日本画の広島晃甫、洋画の小林萬吾、彫刻の國方林三、小倉右一郎、池田勇八、藤川勇造、新田藤太郎、工芸の北原千鹿の8人。木下知事の目的は香川の産業である漆器、丸亀の団扇、東かがわの手袋等々の発展です。それら地域産業に都会的な斬新なイメージを加えるために、力を貸してほしいということでした。再度知事が上京した時、日本画の高田美一、洋画の猪熊弦一郎、柏原覚太郎、工芸の大須賀喬が加わった集会で、作家たちから出された案が、県が主催で年に1回、美術展覧会を開いてはどうか、というものでした。こうして翌9年に県展が始まりました。趣旨は香川県内の美術を育てること、東京で発表されていた新しい表現を県民に見せ、郷土美術界に刺激を与えることでした。第1回の県展は公募ではなく、東京で活躍する日本画、洋画、彫刻、工芸の作家を中心に構成され、日展、春陽会などの入選歴等のある作品が対象だったそうですが、反響が大きかったようです。第2回から一般公募するようになると回を重ねるたびに出品数が増え、香川の美術が盛り上がりはじめました。
時を経て今年で県展が始まって83回が過ぎました。熱心な県展への応募者はまだまだ数多くいらっしゃいますが、将来を危惧する要素も浮上しています。






図のグラフは第60回(1995年・平成7)、第70回(2005年・平成17)、第80回(2015年・平成27)と3回の応募者の年齢別棒グラフ(10歳毎)です。ご覧になっていかがでしょうか。一番の問題は、若年層の応募者が加速度的に減少していることです。このまま推移すると、第90回、第100回はどうなるのでしょう。現在のような県展は消滅し、審査もなくなり、コンクールからフェスティバルになりかねません。
その背景に表現の多様化があげられます。作品づくりは、自分の思いを形や色に視覚化し、発信しようとするものですが、そこは今も昔も変わらないと思います。しかし表現のための素材や方法が、時代(社会)の変化とともに大きく変化しています。県展もその変化に対応していく事が喫緊の課題と考えています。今までにも応募作品のサイズの上限、下限を変更し、彫刻部門では500kg以上の作品も屋外での募集を始めました。しかし、表現の多様化に対応するためにはさらに改善が必要です。
今後もさらに幅広い層の人たちが関心をもち、出品したくなる、また観に行くのが楽しみとなる展覧会にしていく必要があります。事務局としては将来への不安材料の多い県展をただ指をくわえて見ている訳にはいきません。猪熊弦一郎氏らが香川の美術に刺激を与えるため、新しい美術を見せることによって活性化を図った発足時に立ち戻り、香川県展の継続、さらに発展のために変化し続けることを念頭に置いて取り組んでいきたいと考えております。
(主任専門学芸員 橋本 武生)

ポスター

新人賞(40歳以下)の受賞者が自作作品について語る(2018年6月28日撮影)