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最終更新日:2026年2月20日

【復元秘話vol.02】地下に埋もれていた高松城東之丸石垣の発見と復元

特集

香川県立ミュージアムの東入口には、当館建設中の発掘調査によって確認された高松城東之丸が復元されています。東之丸の役割や復元までの経緯、石垣の見どころをご紹介しましょう。

高松城の東之丸の位置づけ

東之丸とは、高松城の東側を守る曲輪(くるわ:堀、土塁、石垣などで仕切られた空間)です。築城した生駒(いこま)家から高松城を松平家が引き継いだとき、東之丸はまだありませんでした。その後、初代藩主頼重(よりしげ)が、1671年ごろから東之丸と北之丸の築造を進めます。築造の理由は、高松城東側の防衛機能の強化などと見られます。東之丸には、お米を貯蔵していた「米蔵」や、現代でいうところの工事現場事務所にあたる「作事(さくじ)小屋」が建っていました。

香川県歴史博物館(現 香川県立ミュージアム)建設時に発掘された東之丸の石垣

東之丸の場所は、江戸時代から現在までさまざまな経緯をたどってきました。幕末までは松平家の居城として使われていましたが、明治維新後は一時、陸軍の管轄になったこともありました。さらに時代は下り、当館が建つ前は学生向けの寄宿舎がありました。寄宿舎を建てる際に、おそらく石垣が妨げとなったのでしょう。表から上の部分の石垣が失われ、地表から深さ30cmより下に石垣が埋まっていました。

その石垣が当館の建設にともなう発掘調査で発見されたのです。これだけ大規模な石垣なので、一部保存するように方針を転換し、復元することになりました。

石垣の保存と復元工事

石垣の復元工事は、香川県立ミュージアムの建設と同時期の1998年~1999年に行われました。

東之丸の石垣は3段で構成されています。現在、見えているのは中段と上段で、下段は地表より下に位置しています。下段が最も古く、1670年代に築造された姿を留めていたため、土の中に埋めて保存されています。

その上を土とコンクリートの層で保護して、中段と上段を復元しました。中段は、出土した状態で一つ一つの石に番号を振って図面化し、いったん解体して、再び図面に基づいて積みなおしています。上段のほとんどは、新たに石垣を積み足し、往時の高さに復元した部分です。当館の北側にある香川県県民ホールには石垣が残っているので、復元する石垣も同じ高さに揃えました。道路を挟んで当館と県民ホールの東之丸の石垣が続いているように見えることでしょう。

石垣の前は外堀をイメージした水庭をデザイン。午前の早い時間帯には水面に日の光が反射して、きらめいて見えます。

発掘調査を通して発見されたこと

江戸時代末の修理の跡

中段には、一度崩落して積みなおした形跡が見られました。幕府へ修理を届け出た史料や出土遺物によると、江戸時代末ごろの修理だと考えられます。その上に積まれた上段は、それ以降に築造されたものです。

くさび跡から読み取れる築造年代

中段と上段の境目には横に長い石が使われており、その石の底面は波打つように削られています。これは当時、石を割るときに使った「くさび(矢)」の跡です。くさびの幅は多くの城が築かれた安土桃山~江戸時代前期の数十年間で変化していくため、それをもとに築造された年代を割り出す研究者もいます。

発掘調査で築造時の器の破片を発見

石垣の表面に見える築石(つきいし)の後ろには栗石(ぐりいし)という細かい石が積まれ、さらにその奥に盛土があります。盛土からは、積みなおした時に流し込んだ土に混ざって、18世紀後半以降の器の破片が発見されました。その器の年代からも、石垣が積みなおされた時期を推測することができます。

ちなみに、栗石には盛土に溜まった雨水を排水する役目があります。栗石がないと水を含んだ盛土が築石を押して、石垣が崩壊することもあるんです。

高松城の石垣の見どころ

石垣の積み方

石垣の積み方は大きく3つあります。

1つ目は「野面積み(のづらづみ)」です。自然の石を加工せずに積む、最も古い積み方です。

2つ目は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」です。ある程度割った石を使って隙間を少なくする積み方です。当館の東入口の石垣は、打ち込み接ぎで積まれています。

3つ目は「切り込み接ぎ(きりこみはぎ)」です。正方形や長方形に加工した、隙間がない積み方です。高松城では旭門を入った正面の石垣など、見栄えのよい場所に採用されています。

角は算木積み(さんぎづみ)

石垣の角は、横に長い立方体の石を長辺と短辺が交互になるように組んでいます。この積み方を「算木積み(さんぎづみ)」と言います。これによって石垣全体の強度がアップし、崩れにくくなります。1605年ごろから全国的に普及していった技術で、高松城の中でも一番新しく築造された東之丸艮櫓台(うしとらやぐら)では完成された算木積みを見ることができます。

落とし積み

県民ホール側にある石垣の一部に、石を斜めに組む「落とし積み」の積み方が見られます。落とし積みは19世紀以降に広く見られるようになる積み方であることから、この場所は何らかの理由で江戸時代末~明治時代以降に積みなおされたのではないかと考えられます。

間詰石(まづめいし)

築石と築石との間を埋めるように詰められている石を「間詰石(まづめいし)」と言います。間を埋めることで敵が登りにくくなります。後から詰めているだけなので、落ちることもけっこうあります。間詰石が落ちても、石垣自体にはそれほどダメージはありません。

高松城の石の産地について

高松市は庵治石(あじいし 花崗岩の一つ)が有名ですが、高松城の石垣は、庵治や屋島の石丁場から石が運ばれたと考えられています。庵治や屋島には高松藩が管理する石丁場もありました。石材は主に花崗岩(かこうがん)、安山岩、玄武岩の3種類。当館の前の石垣は、種類にこだわらず、いろんな石が使われています。築造作業には、庵治や屋島の石工職人たちも携わっていたことでしょう。

【番外編】艮櫓(うしとらやぐら)が南東にある?

県民ホールの敷地にある、東之丸の北東の隅には櫓台(やぐらだい)跡が残っています。ここにはかつて艮櫓(うしとらやぐら)が建っていました。艮櫓は現在、玉藻公園の南東の隅、旭門の南側に移築されています。実は「艮(丑寅)」とは北東の方角を指します。艮という名前なのに南にあるのは、ユニークなポイントかもしれませんね。

【番外編】香川県県民ホール地下の東之丸跡下層石垣

県民ホールの地下には、建設時の発掘調査で確認された17世紀中ごろの石垣の一部が保存されています。

この石垣は生駒家時代の絵図には載っていないため、松平家が高松城を引き継いだ1642年以降に作られたと考えられています。1671年ごろ以降は東之丸が築造されたため、わずか30年間の間に作られ埋められてしまった石垣といえるでしょう。城下町の町人たちが船を出すために自分たちで護岸として作ったのではないかという説もあります。また、4度にわたって増改築した跡もあり、30年の間に何があったのか、謎に包まれた石垣です。

毎日9:00~19:00に一般公開(無料)されていますので、当館の石垣とあわせて見学してみてはいかがでしょうか。

現代の私たちも見て触れることができる江戸時代の史料、石垣。ぜひ石垣を間近で観察して、高松城の変遷や石工職人たちの技を感じてみてください。