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最終更新日:2026年1月9日

ミュージアムガイダンス vol.45 生誕120年 鎌倉芳太郎

ミュージアムガイダンス

沖縄文化と鎌倉芳太郎

徳川幕府の政権下、直接的には薩摩藩の下にあった「琉球国」つまり現在の沖縄は、中国との良好な関係を維持する政策をしていました。沖縄が異国情緒を醸しているのもそのためであり、中国をはじめ東南アジア圏の国々との交流が、沖縄独特の文化を誕生させました。明治後期には、明治政府の命により、岡倉天心による「宝物取調」が行われました。これは明治政府が琉球の特色ある芸術文化の価値“異国趣味”に関心を寄せていたことを物語っています。この異国趣味による沖縄文化の研究は、岡倉天心をはじめ当時の研究者にとって、大いに興味を示すものでした。大正10年(1921)の柳田国男が沖縄に民俗学的な価値を見出したことで、知られざる異国趣味を色濃く反映した沖縄特有の文化が明らかにされるようになりました。中国、インド、トルコの建築をつぶさに見て歩いた建築家伊藤忠太は、この異国情緒あふれる沖縄の建築物に魅了された一人でした。

香川県三木町出身の鎌倉芳太郎は、大正10年東京美術学校選科を卒業、教員として沖縄県女子師範学校に赴任し、大正12年(1923)まで滞在しました。教員としての職責を果たしながら、沖縄の資料収集と研究に努め、前述の伊藤忠太とともに「琉球芸術調査事業」に参加しました。この調査のため、芳太郎はドイツ製のカメラを購入し、首里城をはじめ多くの建造物などや美術品について膨大な枚数におよぶ撮影を行いました。この写真撮影と型紙などの資料収集、調査によって、記された成果は“鎌倉ノート”に詳細に綴られており、民俗学的な見地から庶民が生活する住居のスケッチ、沖縄特有の人々の暮らしの意匠など、克明な記録が遺されています。

大正14年(1925)、解体の危機にさらされた首里城は、芳太郎と忠太の連携を経て、伊藤忠太が政府機関への取り壊しの中止を進言したことで、一日は難を逃れることができました。しかし、のちに沖縄戦にて首里城は火災に遭い、灰燼と化してしまうこととなります。首里城の再興に際して芳太郎がかつて克明に撮影した写真が基となって、沖縄の象徴的存在である首里城が復元されました。芳太郎はこのように、沖縄文化の復興に貢献し、「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」のひとつとして首里城跡はのちに世界遺産に登録されています。

染織家、鎌倉芳太郎

芳太郎は、すでに失われた沖縄特有の伝統的な染色技法である“型絵染”を復興させたことでも知られています。のちに、伝統的な工芸技法の復元と継承により重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。芳太郎は、沖縄において、廃屋と化した型絵染の制作工房跡から型紙を収集、絵柄をいくつかのパターンに整理・分類することで沖縄特有の意匠の発見に至りました。

しかしながら、芳太郎の功績は前述のとおりこれだけに止まりません。前述の沖縄文化研究者としての活動は、宗教や民俗、あるいは文学に関連する沖縄の遺産の復興に大きく寄与しています。染織家としての一面は、沖縄文化研究の一部であり、その成果が宗教や民俗、建築の解明に及んだことは特筆されるべきでしょう。

沖縄文化研究は芳太郎自身の生涯を通して求めていたものであったことは若かりし芳太郎自身の言葉からも明らかでした。「顧みれば二十代の初めに渡航してより六十年の星霜を閲した。その間、私の生涯を賭しての研究の燈火に留意しつつも実現の運びに至らず、今日に及んで漸くにして初志を達成し得たことは、沖縄学が漸進して興りつつあるこの時期に当り、私自身深い感慨を禁じ得ない」(『沖縄文化の遺宝』岩波書店 1982年)と述べています。

今年は、鎌倉芳太郎の生誕120年にあたります。日本の文化遺産を幾度となく危機的な状況から救い、将来へと語り継がれるべきものへと導いたその功績を称えてこのパネル展は開催されるものです。

(専門学芸員 田口 慶太)

色差し(着彩)をする鎌倉芳太郎 協力:(株)講談社

展覧会情報 明治150年関連企画 パネル展「生誕120年 鎌倉芳太郎の業績」

日時

10月2日(火)〜12月24日(月・祝)

場所

2階西ロビー