調査研究ノートvol.29 瀬戸内海の戦後処理 —多度津「港組」の活動—
平成30年度に瀬戸内海歴史民俗資料館に寄贈された資料群の中から、昭和22年(1947)香川県多度津町で創設され、多度津港における荷役や瀬戸内海主要航路の掃海作業を行っていた「港組」の活動の様子をとらえた写真資料について紹介します。

終戦後、進駐軍の指令により多度津港に、善通寺師団などの旧軍事施設に残存していた大量の銃弾や砲弾などが海中投棄されました。また瀬戸内海には戦時中、米軍や日本海軍が設置した機雷の多くがそのままになっており、終戦直後に、定期航路を航行中の汽船が機雷に触れ沈没するという事件が多発し、多くの犠牲者を出しました。
終戦から数年が経過した多度津港は経済活動再開に伴い、多くの貨物船が出入港するようになり、海中投棄された弾薬や機雷など、航海の安全を脅かす兵器類を引き揚げる必要が生じました。このようなことから、港組は昭和22年12月から翌23年(1948)2月にかけて、港内付近に沈んでいた砲弾や船舶10数隻の引き揚げなど、数度にわたり多度津港付近の掃海作業に従事しました【写真1】。
さらに港組の活動範囲は多度津港に限らず、香川県西部海域にまで及び、海中に沈んでいる弾薬や船舶はもとより、飛行機や小型潜水艦など多種多様なものを引き揚げました。

【写真2】は、海中より引き揚げられた巨大な飛行機の尾翼が、陸上にあらわれた直後の様子を写しています。尾翼の大きさや形状などから、この飛行機は旧日本海軍の二式飛行艇と思われます。付随資料の「港組略歴書」によると、昭和23年から昭和25年(1950)9月にかけて、海軍飛行隊が置かれた三豊郡詫間町(現:三豊市詫間町)近海において数回にわたり掃海作業を行い、旧海軍軍用飛行機の残骸を引き揚げたと記されています。そのいずれかの引揚げ作業の際に撮られた写真と考えられます。
終戦後70数年が経過し、終戦直後の混乱期の実態を調べることが困難になりつつある中、本資料は、多度津港や香川県中西部海域における戦争の爪痕が色濃く残っていた様子を示す極めて重要な資料と言えます。
(瀬戸内海歴史民俗資料館 主任専門職員 芳澤 直起)
(参考文献)・「多度津町誌」(多度津町誌編集委員会編、多度津町、1990年)
・氏家陸夫「多度津港史話」(水脈の会、2011年)
(調査協力) 岡部富雄、森広幸、山本浩司、渡辺ハル(敬称略)