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最終更新日:2026年1月9日

Topic 松平頼恭ってどんな人? —博物図譜をつくったお殿様

トピック

海や川に生きる生き物、空を飛ぶ鳥、野や山に生える植物のすがたを見事に紙の上に表現した「高松松平家博物図譜」(香川県指定有形文化財、以下「松平家図譜」と略す)。この図譜は、高松藩五代藩主の松平頼恭というお殿様の命でつくられました。では、頼恭はどのような人物だったのでしょう。

守山松平家から高松松平家へ

松平頼恭は高松松平家の出身ではありません。守山松平家二代の頼真の三男として正徳元年(1711)に生まれました。守山松平家は、水戸徳川家の分家にあたり、領地は現在の福島県郡山市や茨城県大洗町などにありました。

頼恭は幼いころから聡明だったそうで、養子に迎えたいという大名家もあったといいます。頼恭が28歳になった時、高松松平家四代頼恒が重い病にかかりました。頼恒の近い親族に跡継ぎがいないため、頼恭が五代当主を継ぐことになりました(系図参照)。

博物学への興味

頼恭は「物産の学問」つまり博物学へ深い関心を寄せていました。植物や鳥・獣・鉱物・骨や羽毛の標本などを、中国や朝鮮、琉球さらには西洋のものまで集め、専用の箱に納めていたと伝えられています。

このような博物学の興味から生まれたのが、「松平家図譜」だったと考えられます。図譜は、世界の博物画と比較しても全く引けをとらない、むしろそれを超えるとまで言われるほどの出来になっています(p.2〜3特集参照)。制作にあたっては、頼恭の意向が反映されたと考えて間違いないと思われます。

「高松松平家博物図譜」の背景

非常に完成度の高い図譜が生まれた背景には頼恭の性格があると思われます。頼恭の伝記である『増補穆公遺事』(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)を読んでいると「根気強く」という文言があちこちに出てきます。関心・興味をもったものに力と時間を注ぐというような意味合いで使われており、繰り返し出てくることから頼恭の目立った特徴だったことが分かります。

頼恭の父、頼真は武芸に熱心で、弓術・馬術・鎗術・剣術いずれもその技を極めたといいます。中でも剣術については新田宮流を学び、そこから一流派を興すまでに至ります。また、刀剣についても関心をもち、自ら鍛刀を行ったほか、刀の外装についても新しい形を考案しています(画像参照)。

一方、頼恭の兄で守山松平家を継いだ頼寛は、菊の栽培と研究に力を入れ、著作を刊行しています。

父、兄ともに物事を極める人物であったといえ、頼恭の性格はこうした環境によって育まれたとみられます。取り組んだことを徹底して追求するという姿勢が、高い質を保ちつつ、豊富な内容をもつ「松平家図譜」を生んだのです。

(主任専門学芸員 御厨 義道)

松平頼真が考案した刀剣拵の金具(大学頭)