語る武具 Armour & Stories

高松市歴史資料館蔵 香川県指定有形文化財
地鉄は板目や肌立ち、樋中程、地景さかんに入り地沸つく。刃文は物打あたり激しく動き、刃元に向かって丁子・互の目が交じる。沸激しく付き、砂流し、金筋が入る。帽子はしっかり一枚となり小丸に返る。身幅が広く大切先の南北朝時代らしさを漂す。
刀は語る 香川県ゆかりのかたなをめぐる物語を紹介します。
かたな、よろい・かぶとなど、むかしの武器や武具類に関心をもつ人は少なくないのではないでしょうか。近年は、オンラインゲームに端を発した刀剣ブームがあり、江戸時代以前の武器や武具への関心は高まっています。
刀剣類は古い時代から美術品としての鑑賞もさかんに行われ、展開しながら今も続いています。長い刀剣鑑賞の歴史の中で使われてきた用語は、必要なことを言葉に表すために避けられませんが、一方で知識がないと近寄りがたいという印象になることも否めません。これは刀剣類に限らず武器・武具類全般に通じることでしょう。
武器・武具に限ったことではありませんが、古い時代のものが今に伝えられるにあたって、さまざまな由緒や来歴、いわくがついています。そうしたモノにまつわるさまざまな「物語」を入口にすると、少しなじみにくい武器や武具にも親しみやすいのではないでしょうか。
本特集では、武器・武具の中から香川県ゆかりのかたなについての「物語」を紹介していきます。
高松藩家老を襲った悲劇を象徴する刀
江戸時代が終わりを迎えた幕末期、社会全体を変革・変動とともに混乱が覆っていました。今でも話題にのぼる坂本龍馬や高杉晋作などの志士たちが新しい日本を目指して活躍する一方で、傾きゆく幕府を支えようとする人々もいました。
高松城を拠点とする高松松平家は、徳川家康の孫にあたる頼重を初代とする大名であり、江戸時代を通じ幕政を支え、幕末においてもその姿勢は変わりませんでした。慶応4年(1868)正月、幕府がもつ政権を朝廷に返上した坂本城にいた徳川慶喜は、朝廷を中心に政治を担う薩摩藩・長州藩らが出した自らに対する処分を不服として軍を京都に進めます。その途上で新政府軍と衝突し合戦となります(鳥羽・伏見の戦い)。この戦いに高松藩兵が参加していました。
旧幕府軍は敗走、新政府軍は官軍となり旧幕府に加担する藩の討伐に踏み出します。鳥羽・伏見の戦いに参加した高松藩は、天皇に敵対する「朝敵」とされ、土佐藩を中心とした討伐軍が編成され、高松へと向かいました。
高松藩は事態を解決すべく交渉を行いますが、新政府軍の出した条件は、鳥羽・伏見の戦いの責任者の処刑をした上で降伏せよというものでした。
この条件の受け入れをめぐって高松城内では激論が交わされます。その結果、新政府軍の出した条件のみ、高松城を明け渡すことに決定します。決定にあたって、事態の責任者として処罰を命じられたのが、家老の小夫兵庫(43歳)、小河又右衛門(28歳)でした。罪の内容は、小夫は徳川慶喜への加担責任を、小河は鳥羽・伏見の戦いでの指揮責任を問うというものでした。降伏決定が正月16日、18日に小夫は正覚寺(高松市番町)、小河は弘憲寺(高松市錦町)にて切腹し、二人の首級は新政府軍に提出されました。20日、土佐藩を中心とする討伐軍が高松に到着、高松城を受け取ります。大きな混乱もなく開城が行われたことには、小夫・小河両名の処罰を終えていたことが大きく関わっていたとみることができます。

香川県立文書館蔵
「朝廷に対し不届きがあったので切腹を命じる」との内容が記されている。短い文面ではあるが、高松藩の明暗を分けた事件に関わる貴重な資料である。
小夫の切腹時に介錯(切腹のとどめをさす行為)に用いたとされる脇指が今に伝わっています。刃長は50.0cm、茎(刀の握り手に差し込む部分)に作者の名前「備後守藤正全」が刻まれています。正全は江戸時代前期に尾張国(愛知県)名古屋や京都で活動した刀工です。この刀は、表面にやや粗い部分が目立ちますが、刃の厚みのあるしっかりとした出来になっています。歴史上の緊張の場面で用いられた品と考えると、美術工芸品とは違う迫力を感じます。激動する歴史の中で製った悲劇を受け止め、現代まで伝えてきた遺族・子孫の想いも込められているでしょう。
有名刀剣鑑定家が驚いた「芦葉江」
江戸時代、古い時代から刀剣の研磨と鑑定を担ってきた本阿弥家によって「名物三作」と評された三人の刀工がいます。藤四郎吉光、正宗、江義弘のことです。中でも江義弘作と認められた作品は少なく、俗に「江と化物はみたことがない」とも言われました。
その数少ない江義弘の作品のひとつ「芦葉江」(江義弘の作品は所有者やゆかりに応じて〇〇江の号が付いています)は香川県にゆかりのある品です。作品の特徴から南北朝時代(14世紀)の作品と判断しますが、どこにあったのかがある程度分かるのは戦国時代(16世紀)になってからです。細川幽斎(藤孝)が摂津国(大阪府)で見た際に詠んだ和歌「津の国の鵜殿の里に来てみれば悲しとは見へぬ義弘の太刀」が号の由来されていることから、16世紀には摂津国にあったようです。くわしい経過は不明ですが、江戸時代には豪商淀川家が所有しました。その間、戦国大名の小西行長が豊臣秀吉から拝領したという伝承や水無瀬神宮(大阪府)伝来品であったらしいことが分かっています。
「芦葉江」が香川に入ったのはいつごろのことかははっきりしませんが、幕末になって富農の旧家大西家に所蔵されたことが確認されます。その前には同じく富農である揚家が所蔵していたといい、揚家から大西家に嫁いだ嫁が里帰りする際に、大西家の当主に「芦葉江」を譲り受けられないなら帰ってこなくてよいと命じられたといわれ、やむなく揚家から大西家に持ってきたという伝承があります。
大西家に所蔵されたのが嘉永7年(安政元年、1854)ごろとみられ、この時に細川幽斎の和歌にちなんだ「芦葉刀」と命名されました。その時点までは号は付いていなかったようですが、現在の号「芦葉江」に引き継がれ、定着しています。
戦前、この刀の鑑定を大西家から依頼された、刀剣目利きの大家本阿弥光遜氏は、香川に江義弘の真作があることに非常に驚いたといい、自著『刀剣鑑定秘話』に鑑刀記を掲載しています。また光遜氏から話を聞いた大老侯(第29代内閣総理大臣、愛刀家としても有名)が「芦葉江」を譲ってほしいと懇望したが、結局入手できないままであったという話も残っています。
日本を代表する美術工芸品のひとつとして愛される刀ですが、現在まで伝わるにあたっては、さまざまな経緯や想いが重なっています。それらは、所有され、用いられる「道具」としての刀の姿を表しています。
(主任専門学芸員 御厨 義道)

当館蔵
地鉄は小板目がよくつみ、刃文は互の目丁子で、ところどころに簾目風となる。刃ぶちに小沸がよくつき、帽子直ぐに入って中丸に返る。刀工の正全は、「古今鍛冶備考」の中で上手であると評価されている。
特別展「語る武具」展の会期は次のとおり変更になります。
2020年(令和2)10月24日(土)〜12月6日(日)
くわしくは当館ホームページなどでお知らせします。