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最終更新日:2026年1月9日

調査研究ノートvol.45 多度津藩政資料から見る多度津藩庁移転

調査研究ノート

多度津藩史上、画期のひとつとなる文政10年(1827)の多度津藩の陣屋建設。香川県立ミュージアムに収蔵されている多度津藩政資料を読むなかで見えてきた、陣屋建設にかかる多度津藩庁移転について紹介します。

多度津藩政資料とは

多度津藩政資料は、県内に残る藩庁で作成された藩政資料群として貴重です。現在、当館に収蔵されている「多度津藩政資料」は、全部で668点あります。このうち413点は公務として記録された日記で構成されており、そのほかに葬儀・法要に関する文書や算用帳などが含まれています。欠けている年代があるものの、宝永元年(1704)から明治22年(1889)までの資料があります。

本稿では、文政9年と翌10年の公務日記からわかる多度津陣屋建設に伴う藩庁の移転について紹介していきます。

多度津藩政資料

多度津陣屋成立以前

元禄7年(1694)に丸亀藩の支藩として新たに誕生した多度津藩でしたが、自らの城は持っておらず、政務は丸亀城内の居殿で行われていました。寛政8年(1796)に京極高賢が4代目藩主になると、家老の林時重は多度津に藩主の居館と藩庁を置くことを進言し、多度津陣屋建設に向けて動き出します。「陣屋」というのは、築城を許されていない大名の居殿を意味します。

丸亀城内で執務をしていた時期も、藩主や藩士は定期的に多度津を巡回しており、一部の藩士たちは多度津に住んでいました。巡回の際、休憩所として使われていたのが堀江(現 多度津町堀江)にあった御茶屋です。堀江御茶屋がいつ頃出来たか明確ではありませんが、明和8年(1771)の日記には「堀江御茶屋」の記述があるため、その頃にはすでに建設されていたことがわかります。文化4年(1807)11月には多度津にも御茶屋が完成し、後に陣屋の中核となります。しかしながら、陣屋建設の責任者であった林時重が文化5年に没し、陣屋計画は一時中断します。

多度津へ引越し

時重の没後、文政8年に息子の林直記(後の良斎)が家老となり、中断していた陣屋建設を進めることになります。文政9年には、藩主高賢が藩庁の多度津移転を表明することにより、多度津へ移る動きが加速していきます。同時期の日記には、役所の移転や藩士の引越しに関する記事がまとまって見られます。

文政9年10月25日、まず先だって多度津へ引越しする者の人選があり、林直記を含む10名が候補に挙げられます。12月25日には、藩の執務室である御広間御番を移転し、藩政事務は多度津で取り扱うこととなります。翌年1月12日には、引越しに関わる人事などを担当する大目付方の箕部安左衛門が多度津へ引越し、5月26日に財政関係を取り扱う役所が多度津へ移転、財政関係などは6月1日から取り扱うこととなりました。

多度津藩政資料からは、多度津への移転は時期を見て一斉に丸亀から多度津へ移るのではなく、計画的かつ段階的に行われていったことがわかります。多度津藩の歴史や体制を知るうえで、基礎となる多度津藩政資料。藩の歴史をひも解く資料として、今後も調査・研究を続けていきます。

(学芸員 川邊 優佑)

日記(文政10年)
多度津への移転について、幕府へ提出した願書を記す。丸亀藩を通して幕府に願い出ていることがわかる。

展覧会情報:多度津藩政資料を読む―多度津藩の引越し―

常設展示室1

4月15日(土)~7月10日(月)

ミュージアムトーク

5月7日(日)、7月8日(土) 各13:30~
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